あきの公造ストーリー

 生い立ち


生い立ち
あきの公造は、1967年(昭和42年)7月11日、
兵庫県神戸市須磨区で、秋野家の長男として生まれました。

生い立ち
幼い頃は喘息持ちで、アトピーに苦しみました。
そのため、人見知りが激しく、内気な少年でした。
母・明子(トシコ)は幼い頃、兄を長崎の原爆で亡くし、満州からの引き上げも経験しました。その時には、幼い妹二人を栄養失調で亡くしました。

生い立ち
戦争で兄妹を亡くしたという母の苦しみは、公造の心の中に、戦争への怒り、そして平和に対する熱い炎となって、強く受け継がれました。

 長崎大学から島原へ


長崎大学から島原へ
喘息・アトピーで苦しんだ経験は、自分と同じ悩みを持つ人の役に立ちたいとの思いへと繋がり、あきのは医師を志し、長崎大学医学部へと進学しました。

長崎大学から島原へ
大学院1年の時には、日本を代表する内分泌の権威であり、またチェルノブイリ原発事故の支援第一人者として世界的にも活躍している山下俊一教授の下で、最先端の医学の研究に励みました。
そして1年後には、長崎県島原の個人病院へ内科医として勤務するようになりました。
それは「地域医療の最前線で苦労を重ねるように」との、山下教授の親心からでした。

長崎大学から島原へ

【中央】社団法人日本内分泌学会・若手研究奨励賞(平成14年6月)
「下垂体PTTG遺伝子の肝再生時における新機能の発見」
【右】ヨーロッパ組織再建学会・若手研究奨励賞(平成17年10月)
「間葉系幹細胞におけるShcファミリーシグナル伝達分子の役割の研究」
大学研究を続けながら、その上さらに、臨床医師として頑張るという、二足のわらじを履く生活。
内科、外科、救急と、患者の必要に応じて、何でもやらなくてはならない、まさに八面六臂の息つく暇のない生活でした。
このころ社団法人日本内分泌学会・若手研究奨励賞(平成14年6月)、ヨーロッパ組織再建学会・若手研究奨励賞(平成17年10月)を受賞しました。

 厚生労働省へ


厚生労働省へ
2006年4月、あきのは厚生労働省に出向し「健康局疾病対策課」の課長補佐に就任しました。
薬害エイズ訴訟和解成立から10年。
薬害の患者さんたちを国の責任としてどう救うのかというのが彼の新たな仕事でした。
薬害エイズ訴訟(やくがいエイズそしょう)
1980年代に、主に血友病患者に対し、加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件を、製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して1989年5月に大阪で、10月に東京で損害賠償を求めた民事訴訟。

厚生労働省へ

薬害エイズ患者が運営するエイズの検査センター
あきのは、持ち前のバイタリティーで、薬害エイズ患者団体のオフィスを何度も何度も訪ねて回り、徹底して話を聞きました。
その結果、患者団体から少しずつ、信頼を勝ち取り、これまで放置されてきた薬害エイズ患者のための研究班設置に尽力しました。
また、「エイズに自分がかかっているんじゃないかなと思う人達の気持ちは、エイズにかかっている患者さん方がもっとも理解をしており、そういった相談も受けられる」と提案し、薬害エイズ患者が運営するエイズ検査センターの設立にも貢献しました。

厚生労働省へ
大反響を呼んだ世界エイズデーのイベントのひと幕
世界エイズデーイベントを開催し、多くの芸能人、アーティストとともに、エイズ予防・検査推進のイベントの大成功に尽力。
同性愛者との連携を進め、各種会合に参加するとともに、東京ゲイアンドレズビアンパレード(07年より東京プライドパレード)を厚生労働省後援とし、エイズについての正しい知識の啓発、検査を推進しました。

厚生労働省へ

薬害エイズ患者が運営するエイズの検査センター
2007年、厚生労働省医系技官採用試験に合格し、2008年4月に厚生労働省医薬食品局血液対策課の課長補佐に就任。いつものように、現場に足を運び、皆と一緒に、汗を流しました。
自らも、年間献血制限回数まで献血を行い、献血を呼び掛けて街頭に立つなどして献血を推進。
この時、あきのの努力が大きく実を結び、全国の献血数が減少傾向から増加に転じました。

厚生労働省へ厚生労働省へ
あきのは、2002年の日本内分泌学会若手研究奨励賞の受賞以来、多くの栄誉を受けました。
2008年11月には長崎大学の客員教授に就任。2009年4月には創傷治癒の分野において、ヨーロッパ、日本、アメリカの3大陸地域で表彰を受けるという快挙を成し遂げました。
【受賞歴】
第38回日本創傷治癒学会・研究奨励賞(平成20年12月)
「神経アダプターShcタンパク質と間葉系幹細胞の創傷治癒と瘢痕形成への関与に関する研究」
【受賞歴】
アメリカ・日本創傷治癒学会ジョイント学会 第1回優秀演題(平成21年4月)
「神経分化におけるSHCタンパクの役割と間葉系幹細胞の創傷治癒への関与の研究」

厚生労働省へ厚生労働省へ
2009年5月、新型インフルエンザの発生に伴い、あきのは成田空港での検疫に参加、感染症の国内侵入、蔓延防止に取り組みました。
8月には、東京空港検疫所支所長に就任。羽田空港における検疫業務の陣頭指揮および新・国際線ターミナルの開業準備に携わりました。
それは連日徹夜に及び、あきの自身も感染するほどの、まさに命を賭けたハードな仕事でした。

 政治家として


あきの公造ストーリー 政治家として
2010年7月、参院議員に初当選。「明日の『健康ニッポン』を造る」との信念で、議員活動を開始しました。

政治家として 1期目
【1期目】2010年~2016年
医師や厚生労働省勤務の経験を生かし、胃がんの原因とされるピロリ菌除去の保険適用範囲を慢性胃炎にまで拡大。国が除菌前の胃カメラ検査も義務づけたことで、がんの早期発見・治療が進み、毎年5万人前後だった胃がんの死者数は13年から徐々に減少しました。20年には4万2000人台まで減り、この間で約3万7000人の命が救われたことになります。

政治家として 2期目
【2期目】2016年~
未曾有の国難といわれる2020年からのコロナ禍にあっては、全国民分のコロナワクチンの確保や、コロナ治療薬として「レムデシビル」の承認を実現。死亡率の減少、重症化予防といったコロナ対策を大きく前に進め、「国民の命を守る」政治を進めてきました。

 父として

議員として、各地を駆け回る以上、子どもと接する時間は、極めて短くなります。しかし、その分、会える時間を大事にし、思い出をつくれるよう心掛けています。例えば、長男とは4年ほど前から、サイクリングをはじめました。時には95キロメートル、高低差400メートルのコースを走ります。年に3回、大会にも参加しています。
長女は中学1年生から上京し、東京の議員宿舎で私と2人で暮らしています。部活をしていたため、私は朝5時半に起きて朝食と夕食づくり。土日は私が九州に戻るため、金曜日には6食分をつくって冷蔵庫に入れておきます。料理の経験もない私の料理を、長女は全部食べてくれました。手を掛けることの重要性を長女に教わりました。

あきの公造ストーリー 父として
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